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「日蓮が慈悲広大ならば、南無妙法蓮華経は万年のほか未来まで流るべし 『報恩抄』」

善龍寺について

日蓮大聖人は、末法の世こそは人類救済の教えである『法華経』が広まる時であるとして、「南無妙法蓮華経」という釈尊のお悟りのお題目をお唱えになりました。そして、「われ日本の柱とならむ、われ日本の眼目とならむ、われ日本の大船とならむ」という、末法救済のための三大誓願を立てられました。その御誓願は、現代の私たちの苦難を救う大慈悲の言葉として、混迷のこの世界にますます深く広く鳴り響いています。

『法華経』のなかの「如日月光明」と「如蓮華在水」から二字をとって自らの名とした日蓮大聖人は、経文の示す通りに法華経の教えを生き抜いた方です。

その御入滅の後には、「祖師信仰」が巻き起こり、人々から「お祖師さま」と呼ばれて、敬い慕われ続けてきました。

当山の祖師像は、開基上人以来の祖師像と伝えられ、八王子空襲の際には、真っ先にお守りして焼失をまぬがれましたが、傷みが激しく、その後にお顔とお手をお直ししました。

昭和56年の宗祖700年遠忌には第32世大玄院日護上人によって本堂の増改築、新客殿の建立事業が行われ、また昭和62年には開基500年を迎え歴代墓所が新築されて、寺観が一新されました。

沿革

当山の開基はいまから530年ほど前、室町時代の長享元年(1487)に遡ります。北条早雲が小田原城を手に入れるなど、戦国大名たちが群雄割拠する戦乱の時代でした。この年に、池上本門寺・比企谷妙本寺両山第8世の大運阿闍梨日調上人(1428~1501)が、関東武州八王子において巡錫を行いました。その時に、八王子滝山城下にあった真言寺の住職と法論となり、数日間の論争の末に日調上人の教説の高さと人徳に感服した住職は、すすんで日蓮宗に改宗したのです。この住職が、当山の開基となった本妙院日英上人で、当時77歳の高齢でした。日英上人はさっそくに寺号を改めて、両山の山号である長興山(鎌倉)と長栄山(池上)の二字を採って、興栄山善龍寺としました。

その後、滝山城はいまの元八王子に移って八王子城となり、当山も城下町の寺々と共に移転しますが、天正18年(1590)に豊臣秀吉の軍勢と加勢する連合軍1万5千によって八王子城は落城します。この戦乱で、当山は荒廃し衰微しますが、時の両山第12世の仏乗院日惺上人の尽力を得て、翌年の天正19年には本郷村の現在地に移り、寺観を整えます。当山第5世の本受院日毫上人の代でした。この法功によって、日惺上人を中興開山、日毫上人を中興開基と称しています。日毫上人は、慶長11年(1607)に遷化、時代は徳川の世になっていました。

江戸幕府は関東に18代官を置いて治安に当たりましたが、八王子方面では日本橋の近山座衛門が夫婦共に日蓮宗の信仰に篤く、天和2年(1682)には当山に客殿を寄進するなどよく外護しました。元禄年間には、代10世の円実院日真上人が中興の祖として本堂・庫裏・鐘楼などを新築・整備します。またこの江戸期には、こんなエピソードが伝わっています。

国定忠治の一の子分の「清水のガン鉄」は、赤城山から八王子に流れて、第18世の日選上人に救われて寺男になり、世を忍びながら平岡町で亡くなりました。法名は、観妙院清光日如居士といいます。また、第22世の日秀上人の代には、天然理心流の剣豪・増田蔵六が、江戸吹上御殿の全国武芸者大会の御前試合において優勝しています。その遺徳を偲んで門弟が立てた碑が、境内に今もあります。

明治期以降には、第27世大綱院日明上人が龍口寺歴代となり、その弟子の第29世大観院日照上人は大荒行堂五行成満の大験者で、御祈祷で当山を栄えさせます。昭和20年の空襲で当山は全焼しますが、第31世常立院日徳上人が復興の基礎をつくり、第32世大玄院日護上人によって本堂改築・客殿・庫裏の新築が行われ、現在の寺観を整えることが出来ました。